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 第33号(2002.11.24)



★ 国分寺の歴史 番頭の歴史

は私が通っていた高校というのは飛鳥地方*1のはずれに位置するところにあり、しょっちゅう近くで珍しい遺跡が発掘された。新聞ネタになったことも少なくなく、歩いて源氏三代の墓*2に行けたりするような・・・、まっそういう所にあったのだ。先生方が大騒ぎしておられたことも、今は納得ができるが、当時の私は古代ロマンもな〜んにも感じなかった。ただの石じゅゃない・・、古墳古墳‥、ただのお墓でしょう。な〜んて具合だ。
ところがすっかり大人になった今、当時の先生方のお気持ちがわかる気がしてきた。単純に感動する、古代○○とか、○○遺跡や又、出土や発掘という言葉に。
何千年もの昔、この場所に誰かが立っていた、生活していた、子どもを育てていた、泣いたり笑ったり、日々コツコツと生きていた−−−もう感動しないでどうする!という気分だ。

も結婚し、数年でこの街へやってきて早15年と7ヶ月、子どもを産み育て、妻として母として、この街で泣いたり、笑ったり生きてきた。
今まで、何気なく見てきた広っぱも、自転車で走っていた道も武蔵国分寺跡の一部だったり、旧鎌倉街道だったりするのだ。
昔々大昔、私みたいな女の人が子どもの手を引いて、いや、ご主人様とこの場所を通りかかったのかなぁ。この道端の木、もしかすると当時からあったのかもしれない。その方もこの木の陰で一休みしたかしら。この木はいったい何人の人々の往来を見てきたのだろう?
すっかり、その気になることには誰にも負けない私。気分はすっかり旅の人・・。
(実は先日の国分寺祭りで参加した文化財めぐりでわかったのだか、この旧鎌倉街道の道幅はもっと広かったとのこと。つまりこの両脇の木々は最近植えられたものなのかもしれない。そうでなくとも、いいかげん荒れた街道をきれいに整備し今の形になったことは間違いないようだ。)
えっ? そうなの? 古代ロマンに浸っていた私のあの気持ちはどうなるの?・・。まっいいや、この場所に立っていた。この街道を歩いていたことにはほぼ゜間違い無いのだから。
大昔から、この場所で私みたいに笑ったり、怒ったりしながらこの土地で生きていた女性がいた、そしてこの先、遠い未来にやっぱり私みたいに笑ったり、怒ったりしながら誰かが元気に生きていく・・・。
今、私も私の歴史の1ページをこの土地に残しています。
番頭、どっこい生きてます。

この項終わり


*1飛鳥地方
このあたりは奈良の飛鳥より古い河内飛鳥といい、飛鳥千塚(約50基)とよばれる古墳群がある。
*2源氏三代の墓
源頼信 −− 源頼義 −− 源義家
(968〜1048)(988〜1075)(1039〜1106)
源頼信は東国で乱を起こした平忠常を鎮め、その子頼義と孫の頼家は「前九年の役、後三年の役」と東北で起きた乱を鎮めに行ったということで、いずれも関東・東北で活躍、武士の棟梁のさきがけと云われています
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